ヒンズー教と仏教の違いは、目指すものが真我か無我かということである。真我とは梵我一如の境地であり、梵天、つまり最高神ブラフマンと一体化することである。無我とは諸行無常なので、自我には実体がないということである。とはいっても、大乗仏教では阿頼耶識を認めるから、現世の自我は崩壊しても、輪廻から脱出しない限り、来世ではその影響で新たな自我が形成されてしまう。
ここでは、ヒンズー教のヨーガにおける修行と、チベット仏教における修行の違いから、真我と無我の相違について考えてみたい。
ヒンズー教のヨーガでは、チャクラを開発して、脊髄の下に眠るクンダリーニを上昇させ、頭頂に達したことで梵我一如の悟りに達したと考える。
それによって、体外離脱の感覚を得たり、死への恐怖が弱まったり、偶然の一致が多く出現したりするので、それらの奇蹟を神の意識との一体化ととらえ、悟りに達した証と考えるのである。ただし、不思議な体験をしたからといって、欲望がなくなったり、すべての物を平等に見られるとは限らない。死後にも意識が残り、輪廻の存在を実感するだけで、真の解放には至っていないものと思われる。
ヨーガでクンダリーニを頭頂まで導くことは、正確な情報や指導の下で行えば、一般の人間でも不可能なことではない。インドではヒンズー教が繁栄したのに対して、奇蹟の出現も迷いの世界ととらえる仏教は、難易度が高いために廃れてしまった。
チベット仏教では、クンダリーニが頭頂に達しても、修行はそこで終わらない。頭頂に達したクンダリーニを、月液と呼ばれる冷ややかなエネルギーに変換し、胸のあたりまで下ろしたところで拡大させ、白い光に包まれた状態で禅定に達する。そこで、自他の区別が解消され、無我の境地に至るのである。
瞑想が終了した段階で、エネルギーを丹田まで下ろして、日常の意識に戻るのである。その体験は真言密教の月輪観における広観斂観に似ている。だとすれば、荒行などを通じて、身体エネルギーを活性化してからでないと、月輪観を行ったとしても、期待される効果は得られないのではないか。
大乗仏教では、あえて涅槃に赴かずに、迷いの世界で衆生を救う菩薩という存在が、理想的な姿として提唱されるようになった。無我の境地を体験して、自分だけ涅槃に達してしまうのではなく、その一歩手前であえてとどまり、輪廻から脱さずに再生することで、人々を救おうとする。その願いこそが大欲であり、小我にとらわれない大我である。密教における大欲大我の主張は、大乗仏教の菩薩道の延長として考えられるのである。
だとすれば、ヒンズー教のヨーガで、クンダリーニが頭頂に達しただけで、梵我一如の真我に達したというのは、幻想ではないのかという疑いが生じる。自我の欲望を維持したまま、奇蹟などの神秘体験を通して、自我が神の境地に達したと思い込んだだけでは、真の悟りに達したわけではなく、輪廻から脱するのは困難なのではないか?
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