彼がドイツで習った先生によれば、「本が買いたい」の方が無標だというのだが、それについては疑問がある。「本が」の「本」は時枝誠記の用語では「対象語」である。これを「本を読みたい」と言い換えても文意は変わらないから、日本語教育では「〜が〜たい」でも「〜を〜たい」でもいいことになっている。
ところが、対象語を人物に替えると、問題が生じる。「学生を呼びたい」を「学生が呼びたい」と改めると、「学生」が対象語ではなく、動作主であるかのような誤解が生じるからである。「私が学生を呼びたい」は可能だが「私が学生が呼びたい」は、自然な日本語とは言えない。したがって、望む対象が人物でも可能な「〜を〜たい」の方が、無標だと言うべきだろう。
主格に用いられる助詞の「が」は、古典文法では省略されることが多い。『伊勢物語』の「むかし男ありけり」は、現代語では「昔、男がいた」である。助詞の「が」は、「我が国」のように所有格を表したり、「妹が見し楝の花は散りぬべし」(山上憶良『万葉集』)のように、連体修飾節における主格を表すのが、本来の用法だったのである。助動詞「たい」は古典文法では「たし」だが、「御返りごとをも承りたう候ひしかども」(『平家物語』)のように、「〜を〜たし」の文型が無標だと考えられる。
「青空文庫」の作家、高野敦志の世界
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