2024年10月13日

詩と小説における言葉(1)

 言語学者のソシュールは、言語をシニフィアン(意味するもの・能記)とシニフィエ(意味されるもの・所記)に分類したが、言語と無意識の関係は、氷山に喩えて説明することができる。言語は話し言葉にしても書き言葉にしても、氷山で言えば水面から出ている部分である。話し手や書き手は、心の中で抱いているものの一部を、言葉として発する。一方、聞き手や読み手は、相手が発した言葉を受け取って、自身の心で相手が抱いていたはずの意味なりイメージを復元しようとする。
 ただし、話し手や書き手が抱いていたイメージと、聞き手や読み手が抱いていたことは、必ずしも同一ではない。時枝誠記が『国語学原論 続篇』で述べているように、「海」という言葉一つ取っても、話し手や書き手が穏やかな瀬戸内の海を抱いていたのに、聞き手や読み手は犬吠埼の怒濤をイメージするかもしれないのである。それが相手を誤解することにもつながるのである。
 ここでは、書き言葉を中心に考えてみることにする。氷山の喩えで言うと、水面に出ている言葉の部分が大きいのは、論文や評論など、論理的な文章であり、次いでエッセイや小説などが来る。出ている部分が小さいのは詩であって、最も小さいのは俳句である。ということは、水面下の部分が大きいのは、俳句、詩などで、エッセイや小説が続き、最も小さいのが論文や評論ということになる。論文や評論は誤解を生みかねない表現は避け、可能な限り言葉で表現しようとする。俳句や詩は、わずかな言葉で読み手に多くのことを暗示しようとする。(つづく)


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posted by 高野敦志 at 00:20| Comment(0) | 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする