2024年10月15日

改版 写真とエッセイ「立山黒部アルペンルートの旅」(pdf)

 本州にもこんな美しい風景があったのか! 立山、室堂高原、黒部峡谷鉄道の旅を、写真とエッセイで紹介します。現地で撮影した峡谷や高山の画像を、多数収録しました。
 改版において、写真の表示を大きくするとともに、それぞれに説明を加えました。

 今回はパソコンですぐに開けるpdfをアップロードします。Adobe Acrobat Readerの「フルスクリーンモード」だと、バーチャルな書籍がモニターに再現されます。以下のリンクからダウンロードしてください。ダウンロードせずにブラウザで開くと、写真が劣化して表示されます。
tateyama2.pdf

 iTunesからダウンロードする場合は、ミュージック→iTunes→iTunes Music→podcasts→当該のフォルダの下に、ファイルが入ります。iOSのアプリpodcastの場合は、「エピソードのWebサイト」に移動すればダウンロードできます。

 なお、パソコンのiTunesで「購読」したり、iOSのアプリpodcast(https://itunes.apple.com/jp/app/podcast/id525463029?mt=8)でマイpodcastに登録すれば、確実に新しいエピソードが入手できます。


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2024年10月14日

詩と小説における言葉(2)

 では、詩の言葉と小説の言葉では、どのような違いがあるのだろうか。詩といっても、典型的な定型詩と、小説の文章に近い散文詩があるので、定型詩と小説の言葉を比較することにしよう。
 詩の大きな特徴は、何よりも言葉の一語一語に読み手の意識が集中し、必ずしも言葉の連なりから生じるイメージを、形成するとは限らないということである。形成を妨げているのは、言葉の一語一語が謎を帯びており、意味するところが一つに限らないからである。
 それに対して、小説の場合は読み手が物語世界に没入すると、言葉を媒介してイメージが生じるという過程が忘れ去られるのである。
 一人称小説における語り手や、三人称小説における視点人物の立場から、作品世界をイメージするので、言葉の一語一語に意識が集中することはまれである。
 とはいえ、小説も一義的な世界観を提示するわけではない。悲劇と思われてきた小説が、読み手によっては喜劇としてとらえられたりする。作品の解釈が多様なほど、小説は豊かな作品世界を読み手に提供しているのである。


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2024年10月13日

詩と小説における言葉(1)

 言語学者のソシュールは、言語をシニフィアン(意味するもの・能記)とシニフィエ(意味されるもの・所記)に分類したが、言語と無意識の関係は、氷山に喩えて説明することができる。言語は話し言葉にしても書き言葉にしても、氷山で言えば水面から出ている部分である。話し手や書き手は、心の中で抱いているものの一部を、言葉として発する。一方、聞き手や読み手は、相手が発した言葉を受け取って、自身の心で相手が抱いていたはずの意味なりイメージを復元しようとする。
 ただし、話し手や書き手が抱いていたイメージと、聞き手や読み手が抱いていたことは、必ずしも同一ではない。時枝誠記が『国語学原論 続篇』で述べているように、「海」という言葉一つ取っても、話し手や書き手が穏やかな瀬戸内の海を抱いていたのに、聞き手や読み手は犬吠埼の怒濤をイメージするかもしれないのである。それが相手を誤解することにもつながるのである。
 ここでは、書き言葉を中心に考えてみることにする。氷山の喩えで言うと、水面に出ている言葉の部分が大きいのは、論文や評論など、論理的な文章であり、次いでエッセイや小説などが来る。出ている部分が小さいのは詩であって、最も小さいのは俳句である。ということは、水面下の部分が大きいのは、俳句、詩などで、エッセイや小説が続き、最も小さいのが論文や評論ということになる。論文や評論は誤解を生みかねない表現は避け、可能な限り言葉で表現しようとする。俳句や詩は、わずかな言葉で読み手に多くのことを暗示しようとする。(つづく)


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