一方、岡田はお玉には興味がなく、片思いされても迷惑にしか感じない。ドイツ留学が決まっているからである。ある日、岡田は狙われている雁を逃がそうとして石を投げ、かえって首に当てて殺してしまう。雁はお玉の象徴であり、偶然のいたずらによって、彼女の魂は悶えるのである。
この小説は明治の末、二十世紀初めに書かれたわけだが、十九世紀の小説によく見られる全知視点で描かれている。現代小説だったら、お玉の視点、もしくは岡田の視点から描かれるはずだ。三人称限定視点で描かれることになるだろう。神の視点とも呼ばれる全知視点では、読者が主人公と同化して物語世界を体験できないので、三人称限定視点を取ることが多いのである。
ただ、「雁」には語り手の「僕」が登場する。したがって、これは一人称小説でもあるわけだが、僕が知り得ないはずの、お玉の父や末造との関係にまで言及している。一人称小説のダブーを冒しているのである。僕が知り得たことしか、一人称の語りでは表現できないはずなのに。
その欠点について、鷗外自身も気づいていたのだろう。語り手の「僕」がお玉と知り合って聞いたことで、居合わさなかった場面についても語れたという言い訳をしている。
「青空文庫」の作家、高野敦志の世界
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