2018年02月08日

ぼくがダライラマ?(37)

 突然、女は笑い出した。からかうようにぼくの周りを巡った。こちらの問いかけを封じて、渦の中で身動きできなくするみたいに。月の光が女の顔を照らすたびに、手がかりをつかもうとしたが、謎は指の間をすり抜けてしまう。
「あなたは私を知らない。私はあなたを知ってる」
 呆然としている隙に、ダムニェンを奪われてしまった。女は岩の上に腰掛けると、先ほどぼくが弾いていた曲を繰り返した。一度聞いただけでそらんじるとは、やはりただ者ではない気がした。
 女は弦を弾く手を止めると、いぶかる目でこちらを見上げた。
「もしかして、私の言葉を真に受けてるわけ?」
「君はいったい、何者なんだ!」
「あなたはまだ子供だわ。お母さんの顔しか覚えてないんだわ」
 女はダムニェンを岩の上に置くと、小走りで走り去っていく。ぼくは追いかけようとしたが、女は池の中に小石を投げ入れた。それに気を取られているうちに、女の顔は闇の中に沈んでいった。
「私は摂政の娘……」
「まさか! 名前は?」
「教えない。あなたに魂を奪われたくないから」(つづく)


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2018年01月17日

ぼくがダライラマ?(36)

 東の空から満月が昇ってきた。太陽の光を受けて輝く月は、夜の孤独を慰めてくれる光だ。自分がどこから来たかを教えていると、仏教では言うらしいが、ぼくには別れたままのお母さんの顔に見える。
 ぼくはダムニェンを弾き始めた。弦の響きに耳を傾けていると、抑えられていた心が開いていく。あの月は僕一人のために、夜空を照らしているわけではない。生死を繰り返す人間にとって、母なるものを象徴しているんだろう。

 東の山の頂(いただき)から
 白く明るい月が昇る
 まだ生まれぬ母の顔が
 ぼくの心に現れてくる

 人の気配を感じた。侍従に見つかったのかと思ったが、大して気にも留めなかった。微かな甘い香木の匂いが鼻をくすぐった。
 弾くのをやめて振り返ると、丸くて色白の女が立っていた。宝玉の髪飾りをつけているから、貴族か何かの娘だろうが、夕暮れに出歩くのは尋常ではない。
「そのまま、私はいないものと思って弾いて下さい」
 この香りは伽羅(きゃら)だろうか。若い娘にこんな近くで接するのは初めてだった。向こうは僕のことを知っているのか。
「私はこの池に住まう龍王の化身です」
 女は真顔で言った。なるほど、高貴な家の娘が、人気(ひとけ)のない池のほとりに出てくるはずがない。(つづく)

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2018年01月11日

ぼくがダライラマ?(35)

         六

 ぼくは侍従の目を盗んで、ポタラ宮内を歩き回るようになった。迷路に似た宮殿の中で、ぼくの姿を見失った丸顔の男が、青ざめているのを想像するのは小気味よかった。ダライラマとして民衆の前に立つには、仏教の教理や瞑想法、占いのための天文学、チベットの文化と歴史、国を治める帝王学とやらまで、学ばなければならないことは山とあった。成人するまで教育をきちんと受けず、野山で狩りするのを楽しみにしていたぼくにとって、ポタラ宮での生活は苦痛以外の何ものでもなかった。
 ぼくの顔色が青ざめ、無気力になっていくのを見て、摂政サンゲ・ギャツォは、ダムニェンを与えてくれた。これは肩からかける弦楽器で、お父さんが食事の後に弾いていた気がする。弦を弾きながら歌うのだが、坊さんには聞かれたくない。後ろ指をさす奴がいるからだ。一連の授業を受けた後なら、出歩くことも許されたので、西方の山に日が傾く頃、ダムニェンを抱えて、宮殿の裏手にある大きな池のほとりで腰を下ろした。
 柳の林に囲まれた池は、宮殿を塗り固める土を掘り出した跡に、雨水がたまったものだった。中央の小島には龍王を祀る神殿が建っていた。仏塔の形をした金色の屋根は、東の空から迫りつつある夜気に触れていた。摂政の話によれば、ダライラマ五世の見た夢を実現した物で、内部に入ることは許されていないとのことだった。(つづく)

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