2018年08月15日

ぼくがダライラマ?(51)

               七

 それから悶々とした日々が続いた。ぼくは自分がとんでもないもめ事に、巻き込まれようとしているのを感じた。摂政の娘からの申し出を無視してしまったら、あの女は嘆き悲しむだろうが、やがて父親の命じるままに貴族に嫁ぎ、平凡ながらも幸せな一生を送るだろう。
 ただ、ポタラ宮で仏教を学び、与えられた政務をこなすことが、延々と続くのではないかと思うと、やり切れない思いにかられるのだ。あの娘に近づかない方がいいと思うほど、摂政の屋敷でよこした文の言葉、ただの一度でいいから一対一で話したいという言葉が、女の声となってよみがえってくるのだった。
 夜になって一人で部屋にこもるとき、ぼくは同じことばかり考えていた。もし会いに行かなければ、行かなかったことを悔いて、会ったときのことをあれこれ空想して、かえって心が乱れるのではないか。それなら、会ってあとは、なすがままにまかせればいいじゃないか。(つづく)


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2018年08月03日

ぼくがダライラマ?(50)

 何でそんな言葉が出てきたのか不思議だった。しかし、話を聞いてくれる民衆は目を見開き、ぼくの言葉に聞き入ってくれているのだ。うなずいたり、顔を見合わせているところを見ると、勇気が湧いてくるのを感じた。
「ですから、悟りというものは、この身のままで得られるものなんです。妻を愛することも仏の慈悲、音曲に身を任せて、我を忘れることも悟りに近づく第一歩です」
 ここまで言い終えると、老人たちはぼくに向かって合掌した。人々の口から観音菩薩の真言「オン・マニ・ペメ・フン」が唱えられ、手に持ったマニ車が、軽快に回されるのを見た。ぼくは自分に酔っていたのだろうか。振り返ると、後ろに控えていた僧侶たちの顔に、困惑した表情が広がっていた。互いに小声で何かささやいている。耳を澄ますと「それは異端だ」という声に聞こえた。
 ぼくが口にしていたのは、チベットを席巻する新派、ゲルク派の教えではなかった。初めて仏教が伝わった頃の教え、古派、ニンマ派の教えだったからだ。妻帯しながら俗人のまま、悟りをめざす仏教は、土俗の神々への信仰を巻き込み、地方の民衆、ぼくのお父さんのような行者を介して、命脈を保ってきたのだった。幼い頃にヤクの背に乗ったぼくが、羊の放牧を営む父の後ろ姿から、自ずと学び取った教えが、声となって現れたものだった。(つづく)


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2018年07月19日

ぼくがダライラマ?(49)

 参詣を終えて表に出ようとしたとき、侍従が寄ってきて押しとどめた。人々は説教を聞きたがっているというのだ。そんな話は聞いていない。当惑したものの、覚悟を決めるしかなかった。ジョカン寺の前は押し寄せた群衆で、身動きができないほどひしめいていた。ぼくの姿を見た途端、人々は合掌し、体をぶつけ合いながら、五体投地の祈りを始めようとした。肘で打たれて顔をしかめ、隣の者を小突き出す者まで現れた。
「私はまだ未熟な修行者に過ぎません……」
 一声を発すると、人々はその場にしゃがみ、ひたむきな眼でこちらを見つめた。ぼくは圧倒されそうになり、足の震えをこらえながら続けた。
「私は何も知らずに、両親の家から連れ出され、山奥の僧院で子供時代を過ごしました。ある日、突然、ラサに迎え入れられ、ダライラマとして、この国を統率する者として生きることを求められました。自分にいったい何ができるんだろう? そのとき、ふと気づいたんです。ダライラマは観音の化身とされているが、観音自身は菩薩であって、修行をしている身であるということを。まだろくに祈ることさえできないのに、と思われるかもしれませんが、悟りの種が自身の中にあることを認めさえすれば、それは自身が菩薩であるということなんです。たとえ、賤しい身分で生まれたとしても、自分の中に悟りの種を見つけ、祈りを捧げていれば、あなた自身も、すでに悟っていることと同じことなのです」(つづく)


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