2018年09月04日

ぼくがダライラマ?(54)

 召使いが櫂(かい)で池の底を突くと、舟は音もなく水面を滑っていく。舳先にくくりつけられたランプは、草の生い茂った龍王殿の周囲を照らしている。息を凝らしていると、娘が手を伸ばしてきた。
 そのとき、舟が左右に揺れた。ぼくは危うく声を出すところだった。もう岸に着いてしまったのだ。神殿は黒い塊にしか見えない。この中には、龍王が住まっているのだろうか。知らぬ間にすべてがお膳立てされ、自分はそれに乗せられていくようだ。
 召使いが中に入ると、すでに神殿の内部は、多くのランプで照らされていた。急な階段を娘の手を引き登っていくと、最上階の瞑想の部屋は、かつて見た時とは異なる様相を帯びていた。
 香ばしい匂い立つバターの火が、ヒスイ色に輝く壁面の行者の像を、まるで息をする人間と思わせるほど、生々しく浮かび上がらせていた。片膝を立てて耳を澄ます姿は、肌のぬくもりを感じさせ、今にも壁面から抜け出しそうに見えた。
 閉ざされた神殿の中では、夢と現実の境が定かではないようだった。人間の姿をしていても、それが魔物であるかもしれない。摂政の娘は取り憑かれたように、壁面を埋め尽くした像の中で、とりわけ奇怪な体位をした男女の姿を見つめていた。(つづく)


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2018年08月24日

ぼくがダライラマ?(53)

 龍王譚はポタラ宮の裏手にある。大きな池の水面は黒い鏡だった。薄い雲が切れて月の光が増すと、大空は青みがかってきた。その分、星は数えるほどしか見えない。
 そのとき、龍王殿が建つ池の前に、人影が立っているのが分かった。トルコ石の髪飾りをつけ、黒地に花柄の刺繍を縫いつけた服をまとっている。ランプを顔に近づけると、摂政の娘だった。こんな真夜中に誰が手引きをしたというんだろう。魔性の女だ!
 娘は手を差し伸べると、「猊下」と言いながら握ってきた。思い詰めたように、表情をこわばらせている。ずっと待っていたのだろうか。女の手は冷えている。
「こちらへ」
 言われるままに池の縁に立つと、そこには神殿に渡る小舟がつながれ、召使いの男が膝をついて侍っていた。中にはランプ、バター茶、おまけに寝具までが積んである。
「これは!」
 当惑したまま、ぼくは女の手に引かれ、小舟の中に腰を下ろしてしまった。してはいけない一線を、今まさ越えようとしているのだった。(つづく)


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2018年08月16日

ぼくがダライラマ?(52)

 ついに満月の夜が訪れた。雲が切れて東の空から、赤みがかった月が昇ってきた。思いがこもったような色に、これまでにないほどおののき、興奮を覚えるのだった。行かないという選択肢はなくなっていた。
 夜が更けていった。侍従も床についたようだった。ぼくは用意してあったランプに灯を点すと、薄暗いポタラ宮の廊下を抜けて行った。見張りの兵士には黙っているようにと言い、小銭を握らせておいた。あいつらはぼくの性癖を知っているのだ。野山を駆けまわっていた若者が、剃髪して僧形となっても、巨大な牢獄のような宮殿に、おとなしくなどしていられないことを。
 ポタラ宮を抜け出すと、冷ややかな風が頬を打った。柳の垂れ下がった枝が、幽霊のように左右に揺れ動いている。振り返ると、明かりの消えた宮殿は、輪郭がかろうじて見えるほどだった。(つづく)


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