2018年08月03日

ぼくがダライラマ?(50)

 何でそんな言葉が出てきたのか不思議だった。しかし、話を聞いてくれる民衆は目を見開き、ぼくの言葉に聞き入ってくれているのだ。うなずいたり、顔を見合わせているところを見ると、勇気が湧いてくるのを感じた。
「ですから、悟りというものは、この身のままで得られるものなんです。妻を愛することも仏の慈悲、音曲に身を任せて、我を忘れることも悟りに近づく第一歩です」
 ここまで言い終えると、老人たちはぼくに向かって合掌した。人々の口から観音菩薩の真言「オン・マニ・ペメ・フン」が唱えられ、手に持ったマニ車が、軽快に回されるのを見た。ぼくは自分に酔っていたのだろうか。振り返ると、後ろに控えていた僧侶たちの顔に、困惑した表情が広がっていた。互いに小声で何かささやいている。耳を澄ますと「それは異端だ」という声に聞こえた。
 ぼくが口にしていたのは、チベットを席巻する新派、ゲルク派の教えではなかった。初めて仏教が伝わった頃の教え、古派、ニンマ派の教えだったからだ。妻帯しながら俗人のまま、悟りをめざす仏教は、土俗の神々への信仰を巻き込み、地方の民衆、ぼくのお父さんのような行者を介して、命脈を保ってきたのだった。幼い頃にヤクの背に乗ったぼくが、羊の放牧を営む父の後ろ姿から、自ずと学び取った教えが、声となって現れたものだった。(つづく)


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2018年07月19日

ぼくがダライラマ?(49)

 参詣を終えて表に出ようとしたとき、侍従が寄ってきて押しとどめた。人々は説教を聞きたがっているというのだ。そんな話は聞いていない。当惑したものの、覚悟を決めるしかなかった。ジョカン寺の前は押し寄せた群衆で、身動きができないほどひしめいていた。ぼくの姿を見た途端、人々は合掌し、体をぶつけ合いながら、五体投地の祈りを始めようとした。肘で打たれて顔をしかめ、隣の者を小突き出す者まで現れた。
「私はまだ未熟な修行者に過ぎません……」
 一声を発すると、人々はその場にしゃがみ、ひたむきな眼でこちらを見つめた。ぼくは圧倒されそうになり、足の震えをこらえながら続けた。
「私は何も知らずに、両親の家から連れ出され、山奥の僧院で子供時代を過ごしました。ある日、突然、ラサに迎え入れられ、ダライラマとして、この国を統率する者として生きることを求められました。自分にいったい何ができるんだろう? そのとき、ふと気づいたんです。ダライラマは観音の化身とされているが、観音自身は菩薩であって、修行をしている身であるということを。まだろくに祈ることさえできないのに、と思われるかもしれませんが、悟りの種が自身の中にあることを認めさえすれば、それは自身が菩薩であるということなんです。たとえ、賤しい身分で生まれたとしても、自分の中に悟りの種を見つけ、祈りを捧げていれば、あなた自身も、すでに悟っていることと同じことなのです」(つづく)


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2018年06月18日

ぼくがダライラマ?(48)

 外は星がよく出ている。ちょうど新月であるから、密会の日まであと半月あるということだ。ぼくは平静を保つことを考えた。そのためには、何も考えない方がいい。その間にポタラ宮を出で、ラサの中心にあるジョカン寺に参詣する日も入っていた。当日は強い日射しの中、本堂の前では人々が、五体投地の礼拝を行っていた。駕籠から下りたぼくが、前に進んでいくと、祈りの対象が自分となっていることに気づいた。
 その日初めて、ジョカン寺の本尊である釈迦如来像と向かい合うことになった。これは遠い昔、唐の都から玄宗皇帝の娘、文成公主が嫁入りの際に持参したとされる金像で、釈迦の幼い姿を写したと言われる。金色の王冠にはトルコ石や珊瑚が象嵌され、出家前の王子の装いをしているが、あどけなさが漂う中にも、まなざしは悟りの境地を示している。
 灯明にバターが注がれると、釈迦の顔は闇を照らす光みたいに、一層輝きを増すように思われた。修行はほとんど積んでいないのに、自身の運命を見通していたのだろうか。ぼくが美しい衣装に引かれるのは、うわべを飾ることで、空虚な自分の姿をごまかせるからだ。それに対して、幼い釈迦の方は、内面の美しさが金色の衣装や王冠の宝玉となって表れたのだろう。余りの違いに僕は愕然とし、自分の無知を恥じた。(つづく)


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