2018年11月03日

ぼくがダライラマ?(59)

 足音が近づいている。ぼくは大きく息を吸った。侍従が着替えを運んできたのだった。病に伏せていた摂政が、猊下に挨拶にやって来るというのだ。
 戦慄した。血の気が引いていくのを感じた。表情が変わったのを悟られぬように、ぼくは窓の方を見やった。キチュ河の川面は、先ほどと変わらない。霞がゆっくり動いている。目を閉じてふたたび、侍従の顔を見ると、分かったと答えた。
 朝の勤行を始める。声に力がないのを感じる。瞑想をしても、心の乱れは治まらない。朝食のツァンパは、バター茶でこねても、喉をうまく通らない。そこで、バター茶だけを飲むことにした。体の芯から暖まり、どんなことになっても対処できる気がした。
 摂政が現れた。いつもながら、この男は老獪だと思った。確かに血色は良くないが、顔面を強張らせたまま、出仕を怠っていたことをわびて、感情を面に出さないようにしている。
「猊下のお耳にも入っているかもしれませぬが、娘が結婚いたすことになりました。そのことでいささか心を悩ましていた次第であります。では……」(つづく)


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2018年10月22日

ぼくがダライラマ?(58)

 ぼくは空元気をつけていただけだった。摂政サンゲ・ギャツォが、病と称して屋敷にこもるようになると、もはや不安を隠すことはできなくなった。恐らく何かがあったのだ。あの夜のことが発覚したのか。
 眠れない夜が続くようになった。寝ているのか、起きているのか分からなかった。摂政の娘が床に横たわり、ぼくは夢中で犯しているのだった。気づくと、手がべとべとしている。女の股から血があふれ出し、顔を見ると血の気を失っている。恐る恐る触れると、手についていた血で、女の頬が赤く汚れた……。
 大声を上げて目が覚めた。すでに夜は明けていた。部屋の窓を開けると、冷ややかな風が入ってきた。ラサの町は朝日を受けて、煉瓦造の屋根に飾られた五色の旗タルチョが、ゆるやかにはためいている。天はぐっと高くなり、澄んだ青と対照的な鰯雲が、秋の到来を告げている。キチュ河の岸辺には霞がかかり、彼方の山並みは橙色に輝いていた。(つづく)


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2018年10月07日

ぼくがダライラマ?(57)

         八


 何事もなかったかのように、月日は過ぎていった。ぼくはとんでもないことをしでかしたというのに。一時はダライラマになるために、仏道修行に励もうとも思ったが、あの日を境に箍(たが)が外れてしまった。ぼくは野山で狩りをしていた方が向いているのか。悟りを求めるよりも、恋愛の道に走る方が好きなのだ。
 これは釈迦の悟りを妨げようとした鬼神に、心がとらわれてしまったということか。ぼくは恐ろしくなって、観音菩薩の真言を唱えながら、師であるパンチェンラマのお顔を思い出そうとした。ところが、現れるのは摂政の娘の姿なのだ。

 ラマのお顔を想っても
 ぼくの心にゃ現れぬ
 恋しいあの娘(こ)のほっぺたは
 かくもありあり見えるのに

 聖なる法(ダルマ)を彼女のように
 絶えず心に想うなら
 今生のうちにこの身において
 難なく仏になれるのに

 ぼくはまだ、希望を捨てていなかった。ダライラマとして生きながら、内から湧き上がる本能の力を、抑えることなく活かす道があるのではないかと。それが何かは分からないが、詩を書くことは、少なくとも、心の慰めにはなるのだ。これをダムニェンで節をつけて歌ったら、摂政などは腰を抜かすんじゃないか。(つづく)


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