2018年05月25日

ぼくがダライラマ?(45)

 摂政が戻ってきた。ぼくは書簡の中で、パンチェン・ラマが何とおっしゃっているのかと思った。随分お目にかかっていないが、どうしておられるだろうか。
「いや、これはわしに当てられた物であるから、ご覧に入れるわけにはいかないんだよ」
 もったいぶった言い方に、ぼくは苛立ちを覚えた。形だけは崇められても、所詮ぼくは操り人形でしかないということだ。
「清の康煕帝や、モンゴル王のラサン・ハンが、猊下についていろいろ言って来るので、パンチェン・ラマもお心を痛めておられるのだ」
 またあのことかと思った。ぼくが成人するまで、国境近い山奥の僧院に閉じ込められ、ダライラマ五世の崩御が隠されていたという問題についてだろう。俗人の姿で狩りなどしていたぼくが、突然、ダライラマに祭り上げられたんだから、疑わしく思われてもしかたがない。
「猊下は心配なさらないでいただきたい。猊下にとって最も大切なのは、修行にいそしんで観音菩薩としての徳を身に着け、一日も早くご立派な姿でチベットに君臨していただくこと。清やモンゴルの使節がやってきても、何ら不審に思われることがないような、高貴な品性をお持ちいただくこと」
「そんなこと言われても……」
「だから、わしの言うとおりになさってくださればいいのです。パンチェン・ラマには、猊下当てのお手紙を下さるようにご返事しておこう」
 奥方が出てきた。テーブルで小さくなっていた娘も立ち上がった。玄関に向かうところで、控え室にいた侍従が待っていた。別れの挨拶をして立ち去るとき、ぼくは娘の顔を見たが、目で合図を送ってくるようなことはなかった。(つづく)


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2018年04月25日

ぼくがダライラマ?(44)

 ぼくは怒りを覚えていた。何のためにぼくを屋敷に呼び出し、顔色の変化から心の内側まで探ろうとしていたのか。娘の方はというと、無表情を装っているが、こちらと引き合わされたことに動揺しているに違いない。
 娘は食べることに集中している。ヤクの骨付きの肉を手づかみし、かぶりついているではないか。感情を押し殺しているのかもしれないが、興醒めする仕草だと思った。見かねてて奥方が声をかけた。
「あなた、いくら後ろめたいことがないからといって、猊下を前にして失礼でしょう? あなたのことを紹介したいと思っただけなのですよ」
「いや、この子は隠したいことがあると、はしたない真似を癖があるんだよ。猊下も大目に見てやってください」
 摂政サンゲ・ギャツォは含むところを口許にただよわせつつ、召使いにダムニェンを持ってこさせた。
 仏教学者であり、老獪な政治家でもある摂政は、禿げ上がった額に汗をにじませながら、メンパ族に伝わる恋の歌を弾き語りした。チベットでは「卑しき担ぎ屋」と軽蔑されているのに、どうしてと思った。奥方や娘はメンパ族の言葉が分からないらしかった。
 ようやく食事が終わった。奥方は片付けをさせるために、奥に引き下がった。摂政は書斎に手紙を取りに行った。シガツェにおられる師、パンチェン・ラマから書簡が届いているというのだ。
 そのすきに娘は立ち上がり、テーブルの下の手に、何やら覚え書きらしき紙を渡した。ぼくが開いて読もうとすると、娘は首を振った。ドアが開く音がしたので、ぼくはあわてて懐に隠した。(つづく)


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2018年04月12日

ぼくがダライラマ?(43)

 その日の夕方、ぼくは摂政の私邸に招かれた。鬱屈した生活を送っているのを心配し、心からの歓待をしようとしているのか。これについて、ぼくはあれこれと憶測した。家族から引き離されたぼくを哀れんでいるんじゃない。いまだに埋まらぬ溝を埋めるために、警戒心を解こうとしているのだ。神殿の壁画を見せたというのも、ぼくに心を開かせることで、父親のように振る舞おうとしているのではないか。
 摂政の屋敷はラサの中心街にあった。寺院建築を模したもので、金色に輝く屋根ばかりか、柱に取りつけられた装飾の金具、バターのランプなども黄金が用いられ、世俗的にこの国を動かすためには、富の集中が必要なことを示していた。中でも目を引いたのは、豪奢な家具に刻まれた、花や蝶の細密な木彫りの技で、金粉を塗りたくった上に、極彩色の顔料をほどこし、光沢を出すために透明な塗料もかけられていた。
 すでに日は落ちて、並べられた銀製の茶碗に熱いバター茶が注がれていた。向かい側には摂政と、摂政の奥方が腰をかけていた。くぼんだ目をした奥方は、召使いの女にあれこれ指示を出しながらも、ぼくの方を興味ありげなまなざしで見ていた。
 摂政には子供がいるはずだ……。神殿の池の前に現れた謎の女が、果たして摂政の娘であるか、確かめてやるいい機会だと思った。とはいえ、ここにはその姿はない。ぼくに会わせたくないのか。(つづく)


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