2018年08月24日

ぼくがダライラマ?(53)

 龍王譚はポタラ宮の裏手にある。大きな池の水面は黒い鏡だった。薄い雲が切れて月の光が増すと、大空は青みがかってきた。その分、星は数えるほどしか見えない。
 そのとき、龍王殿が建つ池の前に、人影が立っているのが分かった。トルコ石の髪飾りをつけ、黒地に花柄の刺繍を縫いつけた服をまとっている。ランプを顔に近づけると、摂政の娘だった。こんな真夜中に誰が手引きをしたというんだろう。魔性の女だ!
 娘は手を差し伸べると、「猊下」と言いながら握ってきた。思い詰めたように、表情をこわばらせている。ずっと待っていたのだろうか。女の手は冷えている。
「こちらへ」
 言われるままに池の縁に立つと、そこには神殿に渡る小舟がつながれ、召使いの男が膝をついて侍っていた。中にはランプ、バター茶、おまけに寝具までが積んである。
「これは!」
 当惑したまま、ぼくは女の手に引かれ、小舟の中に腰を下ろしてしまった。してはいけない一線を、今まさ越えようとしているのだった。(つづく)


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2018年08月16日

ぼくがダライラマ?(52)

 ついに満月の夜が訪れた。雲が切れて東の空から、赤みがかった月が昇ってきた。思いがこもったような色に、これまでにないほどおののき、興奮を覚えるのだった。行かないという選択肢はなくなっていた。
 夜が更けていった。侍従も床についたようだった。ぼくは用意してあったランプに灯を点すと、薄暗いポタラ宮の廊下を抜けて行った。見張りの兵士には黙っているようにと言い、小銭を握らせておいた。あいつらはぼくの性癖を知っているのだ。野山を駆けまわっていた若者が、剃髪して僧形となっても、巨大な牢獄のような宮殿に、おとなしくなどしていられないことを。
 ポタラ宮を抜け出すと、冷ややかな風が頬を打った。柳の垂れ下がった枝が、幽霊のように左右に揺れ動いている。振り返ると、明かりの消えた宮殿は、輪郭がかろうじて見えるほどだった。(つづく)


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2018年08月15日

ぼくがダライラマ?(51)

               七

 それから悶々とした日々が続いた。ぼくは自分がとんでもないもめ事に、巻き込まれようとしているのを感じた。摂政の娘からの申し出を無視してしまったら、あの女は嘆き悲しむだろうが、やがて父親の命じるままに貴族に嫁ぎ、平凡ながらも幸せな一生を送るだろう。
 ただ、ポタラ宮で仏教を学び、与えられた政務をこなすことが、延々と続くのではないかと思うと、やり切れない思いにかられるのだ。あの娘に近づかない方がいいと思うほど、摂政の屋敷でよこした文の言葉、ただの一度でいいから一対一で話したいという言葉が、女の声となってよみがえってくるのだった。
 夜になって一人で部屋にこもるとき、ぼくは同じことばかり考えていた。もし会いに行かなければ、行かなかったことを悔いて、会ったときのことをあれこれ空想して、かえって心が乱れるのではないか。それなら、会ってあとは、なすがままにまかせればいいじゃないか。(つづく)


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