2015年03月17日

初級日本語を教える上で(1)

 学習目的に合わせた指導を

@一部の日本人が「助数詞」の一部を、「(一)個」や「(一)つ」で、代用する現象は確かに見られます。しかし、日本人が「助数詞」を誤用するのはまれですから、規範とされている用法は、きちんと学生に教えていくべきです。日本人なら「四日」と「八日」を間違えたり、「犬がいちぴきいました」などと言ったりすることはありません。「本を二本買いました」と外国人が言ったら、稚拙な日本語力を象徴するものとして、日本人から軽く見られてしまうでしょう。それをどの範囲まで教えていくかは、学習目的に合わせた指導が必要となります。
 本人が進学を目指していたり、日本に居住している場合には、初級の教科書に出てくるものくらいは、きちんと身につけさせましょう。そこで問題となるのは、「いっぷん」「にふん」「さんぷん」といった発音上の不規則さですが、これらは口頭練習をしっかりして、口と耳で覚えさせてしまいましょう。
 また、ビジネスマンなどの場合には、「人」「日」「分」「階」など必須のものをまず教え、発音上不規則さのない「台」「枚」なども、学習者の負担を考えながら加えてみるといいでしょう。(つづく)


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2014年03月13日

コギト・エルゴ・スム(2)

 したがって、デカルトがcogitoと書いたとき、「我思う」という意味になってしまうのは、動詞を用いる際に否応なく人称を表さねばならぬラテン語の限界のせいなのである。デカルトの本意は、思った結果として「我あり」と言えることにあるのだから。「思う。ゆえに我あり」でなければ、寸言の真意は表せないわけである。
 とはいっても、翻訳というものの使命は、元の意味を可能な限り忠実に示すところにある。原語のcogitoから勝手に、「我」の意味を除き去ってしまうわけにはいかない。
 原文の意味に沿った形で、寸言を現代の日本語にどう移すかという話に移ろう。そこで問題となるのは、現代語の書き言葉では、助詞は省略しないという点である。「私は」となるか「私が」となるかである。
 日本語では「は」と「が」の違いは重要で、大抵の日本人は区別できるのに説明ができない。その違いの一つに、「は」は「旧情報」を、「が」は「新情報」を表すというのがある。「昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯へ行きました」というふうに、初出の人物には「が」を、二回目以降には「は」を用いるのである。
 仮にデカルトの寸言を「私は思う」と訳そうとすると、思考を開始する以前に、私という存在は既知の情報になってしまう。思考によって自我という存在を知った驚きを表現するには、せめて「私が思う。だから私はいる」としなければならない。けれども、この訳はどうも据わりが良くない。「私」という存在の発見に胸を躍らせる感覚が、直訳的な日本語からは伝わってこないからである。

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2014年03月12日

コギト・エルゴ・スム(1)

 デカルトの有名な言葉に、「我思う。ゆえに我あり」というのがある。原文は Cogito ergo sum.であるが、ラテン語には人称変化があり、cogitoは一人称単数であるから、主語が欠けていても「我思う」と訳されるのである。sum も同様に「我あり」となる。デカルトの母語フランス語では、すでに人称変化が不完全となったため、Je pense,donc je suis.というふうに、主語を明示しなければならない。
 僕が疑問に思ったのは、「我思う。ゆえに我あり」という文語体の寸言が、口語体の日本語ならどう訳されるべきか、ということである。それに答える前に、デカルトの言葉の表すところを、深く味わってみる必要がある。一般的な解釈に従えば、思考することによって自我の存在が確認されるという意味である。
 では、思考を開始した段階で、その主体は一体何者なのだろう。それは意識には違いないが、自我であるという保証はない。思考による検証を経て、初めてその意識が自身であることが確認されるのだから。(つづく)

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