2019年10月06日

日本語教師の国家資格化

 文化審議会国語分科会日本語教育小委員会で、日本語教師の国家資格「公認日本語教師(仮称)」の創設が決まった。現在、日本語教育施設で教えている教師は、大学で日本語学を専攻したり、420時間の日本語教師養成講座を受けたりして、日本語教育能力検定試験に合格した上で、実際に教育現場で働いてきているので、そのまま国家資格が付与される。
 問題はこれから日本語教師を目指す場合である。国家資格を創設するという方向性は正しい。問題となるのは、判定試験以外に必要となる45時間の教育実習を、どこで行うかということである。
 日本語教育施設では、長時間の教育実習を受け容れる余裕がない。大学の外国人学生を対象とした日本語の授業で、日本人学生に教育実習をやらせたとき、外国人学生から「私たちはモルモットですか」と言われたという。プロの教師でない学生に連続して教えられることは、進学や就職を目指す外国人学生にとっては迷惑だからである。
 そうなると、参加する外国人学生にアルバイト代を払って、教育実習をやらせてもらうしかなくなる。その費用は日本語教師を養成する施設がまかなうのか、教員志望者が負担することになるのか。就職内定を出した日本語学校が、研修費用として負担するのか。
 教育実習を受けなければ、国家資格として認定しないというのは、教員養成の観点からは納得がいくが、ただでさえ若い人の教員志望が減る中で、人手不足にさらに拍車をかけるのではないか。


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2019年10月01日

「青りんご」「青いりんご」「りんごは青い」

 これらの表現のニュアンスの違いを問われたら、あなたはすぐに答えられるだろうか。「青いりんご」は「青りんご」と呼ばれる品種のことで、「赤いりんご」との対比で用いられる。日本語では、青という色には、緑も含まれるからである。一方、「赤いりんご」とはいうが、「赤りんご」という言い方はない。りんごは赤いのが無標なので、対比する時を除けば、わざわざ赤と断る必要がないからである。
 では、「青いりんご」と「りんごは青い」は同意だろうか。前者は「青りんご」を指すわけだが、「りんごは青い」の場合、りんごを青いと判断していることになる。したがって、後者では、青くさい、未熟のりんごと表現しているのである。
 形容詞が名詞を修飾する場合と、形容詞が述語として用いられる場合では、意味が異なるのである。「甘い菓子」は菓子の属性を表しているが、「菓子は甘い」では、甘いという判断を下している。この違いを日本語教育では看過している場合がある。教師は折を見て学生に教えておく必要がある。


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2019年04月18日

連体修飾節内の動詞について

 連体修飾節とは名詞を修飾する節である。「兄が撮った写真はこれです」のうち、「兄が撮った」の部分が連体修飾節で、修飾される名詞は「底の名詞」と呼ばれる。「兄が撮った写真」のように、「底の名詞」である写真が元の文である「兄が写真を撮った」の中に含まれている場合を「内の関係」、「鳥が飛んでいる写真はこれです」のように、連体修飾節が修飾される名詞の内容を表し、「底の名詞」(写真)が連体修飾節(鳥が飛んでいる)の中に含まれず、外から付加された場合を「外の関係」と呼ぶ。
 寺村秀夫によるこの区別は、文法研究の上では重要だが、連体修飾節を学ぶ外国人がまず戸惑うのは、連体修飾節の中に含まれる動詞の種類によって、意味が異なってくるという点である。

1 本を読んでいる人は陳さんです。
2 本を読んだ人は陳さんです。
3 陳さんが読んでいる本は、夏目漱石の『こころ』です。
4 陳さんが読んだ本は、夏目漱石の『こころ』です。

「読む」「書く」「話す」など動きに時間がかかる「継続動詞」の場合、「読んでいる(人・本)」は、現在「読んでいる」という継続の状態を表している。一方、「読んだ(人・本)」の場合には、もう読んでしまったという過去のテンス(時制)を表す。そのため、両者の意味に違いが生じるのである。

 では、連体修飾節内の動詞が「着る」「はく」「かぶる」など、動きが瞬間に終わる「瞬間動詞」の場合はどうだろうか。

5 メガネをかけている人は陳さんです。
6 メガネをかけた人は陳さんです。
7 陳さんがかけているメガネは汚れている。
8 陳さんがかけたメガネは汚れている。

「メガネをかけている人」「メガネをかけた人」は一般に同じ意味で発話される。「かけた」の「た」は完了を表している。一方、「陳さんがかけているメガネ」は、現在かけているメガネであり、「陳さんがかけたメガネ」の方は、「かけた」の「た」を過去のテンスととらえることが多い。
 この違いはどこからくるのだろうか。「底の名詞」が「人」の場合は同じ意味で、「物」の場合には意味に違いが生じると、とりあえず教えてしまってもいいかもしれない。ただ、そう教えてしまうと、次のような例文が出て来ると困ってしまう。

9 (陳さんは)しみがつい(い)てるズボンをはいている。
10 (陳さんは)しみがついたズボンをはいている。

「底の名詞」がともに「物」であるにもかかわらず、両者の意味は同じである。7と8には違いがあり、9と10に違いがないのはなぜか。それは7と8では、連体修飾節の部分に動作主の「陳さん」が含まれているのに対し、9と10では連体修飾節に含まれる「しみ」は「物」だからである。
 連体修飾節内に「動作主」が含まれることで、「陳さんがかけているメガネ」は、現在かけている状態、「陳さんがかけたメガネ」は過去にかけたことをことを表す。それに対して、連体修飾節の中に「動作主」が含まれない9と10では、「しみがついて(い)るズボン」も「しみがついたズボン」も、ともにスボンの状態を表しているのである。


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