2017年07月30日

ネルヴァルの「緑の怪物」について(3)

 話は褒賞金を得た伍長と縫子の後日譚へと続く。結婚した二人が授かった子は、体が緑色でしっぽが生えていたのである。酒蔵での出来事は幻覚と解釈できるが、我が子が「緑の怪物」では、悪夢から逃れることができない。怪物は癇癪持ちのいたずらっ子に成長したので、夫婦は救いが得られず、苦しみから逃れるために酒浸りになる。
 ここまで至ると、どこからどこまでが現実で、どこからが幻覚かは分からなくなる。二人は酒蔵に住まう悪魔の夢に、夜な夜な悩まされ続ける。そして、十三歳になると怪物は忽然と消える。不信心で罰せられたという、とってつけたような教訓を添えて、投げ出すように物語を終えてしまう。
 物語の一貫性をこれほど無視した作品も珍しい。各場面のイメージが、思いがけない形で結びつけられている。さまざまな宝石の破片を見せられているようで、各場面のつながりは乏しい。要するに、ネルヴァルは怪奇譚の形で、「手術台の上での雨傘とミシンの偶然の出会い」をやったのである。

 思い入れのある作品であるため、拙訳をpodcast(http://itunes.apple.com/jp/podcast/qing-kong-wen-ku-no-zuo-jia/id504177440?l=en)にアップロードしてあります。よろしければ、ダウンロードしてご覧下さい。

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2017年07月29日

ネルヴァルの「緑の怪物」について(2)

 物語は「ヴォヴェールの悪魔」に関する慣用句の解説から始まり、その悪魔にまつわる史実が記述される。語源や歴史といった学問の話と、超自然的な悪魔の伝説が結びつけられているのである。
 次いで、空き家や地下墓地(カタコンベ)から、けたたましい笑い声や、グラスのカチカチいう音が聞こえてくる。しかし、地下には酒の瓶しかないはずだから、それは悪魔のしわざに違いないということになる。
 そこでようやく主人公の伍長が登場する。小説の作法からすれば、ここまで主人公が出てこないのは破格である。しかも、この伍長が怪物退治に名乗りを上げたのは、褒賞金でご執心の縫子と結婚するためだった。瘋癲という語を冠したくなるような人物なのである。
「神も悪魔も信じない」と言い放って、酒蔵で伍長が目にしたのは、優雅な姿で踊る瓶たちだった。伍長が見た物が悪魔のしわざか幻かは分からない。精神の病を患っていたネルヴァルが描く幻覚は、鮮明に視覚に訴えてくる。伍長は瓶を抱き寄せたが、うっかり落として割ってしまう。飛び散ったワインは、女の血を連想させる。それが裸体の女の死体のイメージにつながる。連想が連想を生む幻覚の生々しさに、鬼気迫るものを感じたものである。(つづく)

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2017年07月28日

ネルヴァルの「緑の怪物」について(1)

 僕が大学で選択した外国語は、フランス語だった。一年生は文法や簡単な読み物だけだったが、二年生になると、いきなりフランス文学の作品を読まされた。そのうちの一篇が、ジェラール・ド・ネルヴァルの「緑の怪物」だった。執筆されたのは1849年で、死の6年前である。
 これが初めて読むネルヴァルの作品で、しかもフランス語でだった。読み終えたとき、何ともへんてこりんな話だと思った。にもかかわらず、不思議と心をとらえて放さなかった。ネルヴァルは散文作家というよりは詩人である。詩人であるということは、描かれる内容以上に、言葉の使い方やイメージに神経を使っているということだ。
 詩人のピエール・ルヴェルディが語ったように、互いに隔たった意味を持つ二つの語を、的確に近づけることによって、詩的な驚異というものは生まれる。シュルレアリストの先駆けとされる詩人ロートレアモンは、『マルドロールの歌』の中で「手術台の上での雨傘とミシンの偶然の出会いのように美しい」と書いたが、ネルヴァルの文章は、あり得ないような出会いの驚異に満ちている。(つづく)


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