2020年02月18日

比喩表現について

 宮本輝氏は作家になる前、いかにも文学的な文章を書いていたが、それから抜け出すことが、自分の文章を書く鍵であったことを、以前テレビで述べていた。島尾敏雄も書いた文章を削って削って、極限まで削ることを勧めていた。僕が世話になった作家のK氏も、比喩なんか要らないと話していた。
 その一方で、文豪と言われる作家の多くは、絶妙な手練で奇抜な比喩をひねり出す。それが強烈な個性として、誰にも真似のできない神業として読者を圧倒する。簡潔さを尊ぶ精神と、比喩を用いた表現の間で、どう折り合いを付けたらいいのか。
 学生に文章を書かせると、いかにも文学的な文章を書いてくる者がいる。しかも、その比喩の多くは、かつて読んだ作品から引いてきたような、手垢のついた比喩なのである。そんな比喩なら、いっそのこと削ってしまった方がいい。自己の体験に根ざした簡潔な文章の方が、よっぽど人の心を打つからである。
 その一方で、個性的な比喩をひねり出してくる学生もいる。ただ、惜しいことに、個性的な比喩と、いかにも文学的な表現、すでに使い古されてしまった表現が同居してしまっている。
 比喩というのは、ある対象を直接表現せずに、他の言葉で間接的に暗示する手法である。ロートレアモンの有名な一節「手術台の上のミシンとこうもり傘との出会いのように美しい」という表現は、「美しい」という観念をを「手術台の上のミシンとこうもり傘との出会い」という奇抜な組み合わせで喩えたこと、喩えられる「美しい」という観念を、喩えたイメージが圧倒している点で衝撃的だったのである。
 ロートレアモンのような過激さは、日本人の感性には合わないかもしれないが、優れた比喩においては、表現したい場面を表す言葉が見つからず、逆転劇のようにひねり出した手腕が光るのである。したがって、文脈から切り離した途端に、比喩が持つ本来の輝きは失われる。学生の多くは既成の文章から抜き出し比喩を、接ぎ木のように組み込んでいるために、どこかしっくり来ないのである。
 簡潔な文章であっても、時折、絶妙な比喩が紛れ込むことで、読者をうならせることは可能である。ただし、いかに個性的な比喩でも乱発されたらたまらない。読者を混乱させるだけである。


「青空文庫」の作家、高野敦志の世界
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posted by 高野敦志 at 01:03| Comment(0) | 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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