2018年10月07日

ぼくがダライラマ?(57)

         八


 何事もなかったかのように、月日は過ぎていった。ぼくはとんでもないことをしでかしたというのに。一時はダライラマになるために、仏道修行に励もうとも思ったが、あの日を境に箍(たが)が外れてしまった。ぼくは野山で狩りをしていた方が向いているのか。悟りを求めるよりも、恋愛の道に走る方が好きなのだ。
 これは釈迦の悟りを妨げようとした鬼神に、心がとらわれてしまったということか。ぼくは恐ろしくなって、観音菩薩の真言を唱えながら、師であるパンチェンラマのお顔を思い出そうとした。ところが、現れるのは摂政の娘の姿なのだ。

 ラマのお顔を想っても
 ぼくの心にゃ現れぬ
 恋しいあの娘(こ)のほっぺたは
 かくもありあり見えるのに

 聖なる法(ダルマ)を彼女のように
 絶えず心に想うなら
 今生のうちにこの身において
 難なく仏になれるのに

 ぼくはまだ、希望を捨てていなかった。ダライラマとして生きながら、内から湧き上がる本能の力を、抑えることなく活かす道があるのではないかと。それが何かは分からないが、詩を書くことは、少なくとも、心の慰めにはなるのだ。これをダムニェンで節をつけて歌ったら、摂政などは腰を抜かすんじゃないか。(つづく)


「青空文庫」の作家、高野敦志の世界
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posted by 高野敦志 at 00:56| Comment(0) | 連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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