2018年09月29日

虎と犬

 虎の王が吠えると、犬の王はひれ伏してお手をした。
「今日は何を持ってきたんだ」
 犬の王は民衆から巻き上げた肉や魚を献上したが、虎の王を満足させることはできなかった。そこで、生け贄に若いつがいの犬を奉った。
 虎の王は哀れむ目で縛られたつがいを見た。お前たちが悲惨な目に遭うのは、詰まらぬ犬を王として崇めているからだ。あいつは保身のためなら、すべての犬を犠牲に差し出すだろう。お前たちにまだ狼の誇りが残っているなら、あんな王は引きずり下ろすがいい。
 犬の王が帰国すると、民衆は王を倒すどころか、生け贄になるまいと互いに足を引っ張り合った。虎の王は「見下げ果てた犬どもめ!」と叫ぶと、生け贄の犬に食らいついた。


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2018年09月27日

米子城趾からの眺望(1)

 山陰満喫パス2018というのをご存じだろうか。鳥取・島根の自由周遊区間を、二日間四千円で、特急自由席を含めて乗り降りできる。ただ、使えるのが購入の翌日からという点は、ちょっと引っかかるのだが。
 さて、境港駅に戻ると、今度は終点の米子に向かった。一時間に一本の境港線は、結構人が乗っているのだが、かつては廃線の危機にあった。米子空港を拡張する際に、線路が邪魔になったのである。境港線を地下化する案も出たが、赤字線にそれだけ投資する意味もなく、いっそのこと、廃線にしてしまおうという意見が出たのだ。結局、迂回するルートが敷設されたのだが。確かに米子空港を出ると、大きくカーブしているのが分かる。その辺りから爆睡してしまった。
 気づくと米子駅だった。ホテルにチェックインするには、まだ時間があった。友人の勧めで、米子城に行ってみることにした。米子駅前の通りをまっすぐ進むと、交差点から天守閣跡の石垣が見えた。あんな高いところに登らなきゃならないのか。登山するようなものだなと思った。(つづく)


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2018年09月25日

歴史小説と史伝

 森鴎外に「歴史其儘と歴史離れ」という文章がある。鴎外は自身の小説が「情」ではなく「智」をもって人物を扱っていると言われ、史実に縛られまいとしていた。「歴史離れ」するために、「山椒大夫」では種本の話に修正を加えている。物語らしさの効果を出すためである。歴史離れを望んだ鴎外も、晩年には史伝に向かったわけだが。
 さて、歴史小説と時代小説の違いは何だろうか。歴史小説は歴史上の人物を扱い、時代小説は古い時代に舞台設定をしながらも、架空の人物を扱うので、作家の想像力はより自由に働く。鴎外の「山椒大夫」も種本があるわけだが、史実と言うより伝説のようなもので、鴎外の「山椒大夫」も時代小説に近い。
 歴史上の人物を扱う場合は、史実に明らかに反することは書いてはいけない。歴史小説の読者は伝えられている史実が、いかに解釈されて肉付けされているかに関心が向いているからである。また、いくら史実を扱っても、登場する人物が現代人のようでは、過去の時代を描いたとは言えない。
 小説というものは、いかに人物や場面を巧みに描くかで、巧拙を競うという側面がある。したがって、具体的な描写が乏しい作品は、果たして小説と言えるかという疑問が生じる。ならば、学者が書く史伝と、作家が描く史伝は同じかというと、そうではない。学者はあくまでも明らかになった史実や、未解明であっても、状況から考えられる蓋然性を、客観的に記していくのである。
 一方、作家が短編小説で史実を扱う場合、芥川龍之介の「或日の大石内蔵助」のように、歴史上の人物の一時期を描くのが普通である。細かな描写をしていくと、短い紙数の中に収まりきらないからである。
 ただ、長編で扱うべき人物の一生を、短編で描くとどうなるか。外見上は史伝の形をとるが、主人公に対する強い共感が、文章の随所にほとばしるようになる。坂口安吾は「道鏡」の中で、孝謙上皇に愛された怪僧を次のように描いている。

 彼の魂は高遠だった。その学識は深遠であった。そして彼は俗界の狡知に馴れなかった。小児の如くに単純だった。荒行にそなえたその童貞の身体は逞しく、彼の唄う梵唄はその深山の修法の日毎夜毎の切なさを彷彿せしめる哀切と荘厳にみちていた。(坂口安吾「道鏡」)

 小説というものは人物を具体的に描写するものだと考えるなら、「道鏡」は小説というよりは史伝に近い。しかし、安吾は道鏡の人物像を歌い上げている。細かな描写はされていないが、人となりをありありと感じさせ、読み終わったときに、一つの夢を見たような感興に浸らせてくれる。その意味ではあくまでも文学なのである。


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