「まだ何か足りないとお思いのようですな」
摂政は意味ありげな笑いを浮かべ、奥方の方に顔を向けた。すると、召使いがあわてて部屋の外に出ていった。少しして手を引いてきたのは……。髪飾りをつけて、化粧をして澄ました顔はしていたが、あの娘じゃないか。日暮れ時にポタラ宮裏の神殿前に現れ、竜女か夜叉のようにぼくの心を惑わし、風とともに消えていった女!
はっとした。摂政はこちらの動揺を読み取っているようだった。平静を装おうとして、顔が赤らんでいくのを感じた。恐る恐る娘の方に目をやると、何て気丈な女なんだ。顔色一つ変えずに、無言で軽く会釈すると、母親の横に腰を下ろした。
「猊下はご存じのようですな」
ぼくは答えられずにうつむいた。すると、娘はいぶかるような目をして、口許に皮肉めいた笑みを浮かべていった。
「父上は人が悪いようですわ。猊下は困ってらっしゃる……」
摂政が切り出すと、ぼくは動揺を隠せずに下を向いた。娘はいぶかるような目をして、父親をなじるように言った。
「存じ上げませんわ。猊下のお姿を間近に拝見したのは、今回が初めてですわ」
すると、奥方が娘の話を受ける形で続けた。
「猊下には一生、清浄な身でいていただかなければなりませんものね。若い娘に興味などお持ちにならないはずですわ」
そう言いながら、奥方はまたぼくの顔を眺め回すのだった。いけ好かない夫婦だとぼくは思った。(つづく)
「青空文庫」の作家、高野敦志の世界
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