2017年11月27日

男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎(第27作)

 寅次郎は夢を見る。亀を助けて竜宮城に行くと、乙姫様はヒロインふみを演じる松坂慶子で、踊っているタコは印刷工場のタコ社長だった。柴又に戻った寅次郎がその夢について語ると、金策に追われていた社長と言い合いになる。夜になっても社長が戻らないので、寅次郎は社長が早まったと思い込み、江戸川に探しに行く。社長を死なせたと悔いて、寅次郎はなぜか「南無阿弥陀仏」と唱える。柴又帝釈天題経寺の檀家なら「お題目」だろうに。
 旅先で寅次郎は墓参りの美女と出会う。ふみという名の女性である。後日、テキ屋をやってるところでふみと再会する。ふみは芸者をしていて、生き別れたままの弟がいた。妹さくらと生き別れだった寅次郎は、我が身のように感じて、ふみに弟と再会するように促す。ところが、弟はすでにこの世にないことを知る。悲しむふみを見て、寅次郎は何もしてやれない自分を不甲斐なく思う。
 真夜中に酒に酔って、寅次郎の宿を訪ねたふみだったが、寅次郎にもたれたまま居眠りしてしまう。同室で夜を過ごすのを避けた寅次郎に、ふみは「迷惑ならそう言ってくれればいいのに」と置き手紙したまま去る。
 寅次郎にとっては、美女との夢のようなひとときだった。こんな女性と親しくなれるなんてと、男なら誰でもうらやむはずだ。柴又に戻った寅次郎のもとに、芸者をやめたふみが現れる。仕事の世話をしてやりたいと、ぬか喜びの寅次郎。実はふみが芸者をやめたのは、対馬出身の男と所帯を持つためだった。会いに来なければ、夢を見続けていられたのに、と寅次郎はこぼす。
 僕が若かった頃、松坂慶子は絶世の美女と評判だった。この世の物とも思えない、天女が舞い降りたかと思ってしまうほどだった。ただ、ほっそりした体型をしていたから、最近のふくよかな姿しか知らなかったら、誰かと思ってしまうだろう。でも、かすれるような声を出していた当時より、今のように響く声の方が好きだな。

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2017年11月26日

不条理劇と笑い

 不条理劇というジャンルをご存じだろうか。「不条理」という言葉を聞くと、カミュの『異邦人』を思い出すが、人生に意味を見いだせない絶望的な状況を、サルトルやカミュが第二次大戦中に演劇化した。1950年代になると、イヨネスコの劇のように、言語が伝達不可能なまでに破壊されたり、ベケットの劇のように登場人物の行為の無意味さが前面に出される。これは「反演劇(アンチ・テアトル)」と呼ばれ、「不条理」に対する絶望が根底にある一方で、滑稽な笑劇の性格を帯びるようになった。
 別役実氏の不条理劇は、イヨネスコやベケットの世界に通底するもので、日常世界が理解不能な状況にゆがんでいくさまを演劇化している。そこには理解不能なものに対する恐れと、「笑うしかない」ような極限状態がある。

 別役氏には不条理劇を書くための創作入門『別役実のコント教室』という著書がある。その中で別役氏は、笑いを以下のようにまとめている。
 @言葉遊び。これは駄じゃれなどで、大きな笑いの中にまぶして使う。井上ひさしのコントにもよく用いられる。
 A即物的笑い。これは舞台上ですてんと転んだり、相手をぶったりなど。ドツキ漫才にも見られる。
 B形象、キャラクターによる笑い。変人とか得体の知れない人間が出てきて笑わせるもので、志村けんの「変なおじさん」など。演技者個人の才能によるところが多い。
C関係の笑い
ケーキだと思っていたのが爆弾だった場合の笑い。作家は「関係の笑い」をどうつくるかで苦労する。
D不条理の笑い
 これは、わっと笑えるような笑いではない。別役氏は次のような例を出している。
 例1 老人A「山田が死んだよ」老人B「まさか。死んだのは山田じゃないかい」老人A「いや山田だよ」老人B「そうか、おれはまた山田かと思った」
 これは当人らは必死に話しているのに、会話が噛み合わない例だが、次に示すのは「笑うに笑えない」類いの例である。
 例2 街角で男の人がナイフで胸を刺されて倒れている。通行人「痛いかい?」負傷者「痛いよ。笑うと余計痛い」

 別役氏の分類について、ここで私見を述べることにする。笑いを引き起こす原因を、言語面から分析できるものは@言葉遊びとC関係の笑い、D不条理の笑いである。@言葉遊びは同音異義語を用いたトリックなどであり、C関係の笑いは、意外なもの同士の組み合わせに基づく笑いである。台詞自体にはおかしみがなくても、設定された状況とその台詞がそぐわないため、笑いが引き起こされる。D不条理の笑いは、コミュニケーションの不成立や、その状況にはふさわしくない発言をして、タブーを侵犯する笑いである。「不条理」という語が持つ「道理に合わないばかばかしさ」が前者を、「絶望的な状況」をブラックユーモアで笑わすのが後者である。
 言語による笑いと無関係なのが、A即物的な笑いと、B形象、キャラクターによる笑いである。前者は下卑た笑いであり、人間の優越感や攻撃本能を充足させる。後者は芸人の個性や能力に依存したもので、他の人物が同じ発言をしても、観客の笑いを得ることは難しい。

参考文献 別役実『別役実のコント教室』(明治書院)

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2017年11月25日

宮本研編『ドラマの書き方』(2)

「『東海道四谷怪談』の方法」という副題がついた広末保の文章も印象的だった。その結論の部分を引用してみよう。
「倫理的な善悪を超越したとき、はじめて悪のエネルギーは顕在化されるが、そのためには、弱者はつねに善であるといった基準をナンセンス化する旺盛な喜劇精神を必要としたはずである」
 これは殺された者が怨霊と化すことで、残酷な復讐をなす内容をさしており、そこには素朴な写実主義からすれば、笑うしかないような作者のユーモアが隠されているというのである。
 椎名麟三の「演劇と小説」は、見過ごされがちな両ジャンルの違いを、的確に指摘してくれている。演劇の最大の特徴は次の点にある。舞台で表現されているのはすべて現在で、そこには目に見える空間があり、観衆への働きかけも容易であるということである。
 それに対して、小説は回想といった形を取ることが多く、表現されている内容も、過去の思い出や将来への希望など、いずれも現前しないものが多い。想像力に訴えるという面では、小説は読者に多くの努力を強いるが、それだけ大きな自由を与えることでもある。
 文学作品を舞台化する際には、こうした根本的な視点の変更が不可避なため、舞台芸術として完成させるには、作品を根本から再構成する必要も出てくる。舞台化された作品が原作に忠実な余り見劣りがしたり、平凡な小説が名監督の手で傑作に変身するのも、今述べたことと無縁ではないかもしれない。

参考文献
宮本研編『ドラマの書き方』(明治書院)

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