2017年11月30日

William Buhlmanの『体外離脱テクニック』(6)

 五番目の方法は「ザ・ボルテックス」である。Vortexというのは渦巻きである。光のエネルギーが頭上から降り注ぎ、体内に下りてくるのを感じる。次いで、真夏の草原を歩いていくさまをイメージする。彼方に青い色の池が見えてくる。癒しのエネルギーを発する水の中に身を浸し、心の底からリラックスする。
 肉体が弛緩した段階で、体の中で動きが生じるのを待つ。ねじるような回転の動きを感じたら、それに身を任せるようにする。お腹にあるチャクラ、太陽神経叢に意識を集中して、それを中心にしてぐるぐる回る。ちょうど自分が丸太か何かになってしまったかのように。これはロバート・モンローが好んだ方法である。
 プラーナ(気)は意識の乗り物、というのが古代インド人の考え方で、意識はプラーナの形でチャクラと密着している。プラーナを活性化して動かすことで、意図的に「体外離脱」することも可能になるのである。この意識は体感的に「第二の身体」として知覚される。
 肉体から引き離されるような力を、「体外離脱」するときには感じるものである。人によって力の働く方向はさまざまで、「第二の身体」が起き上がるように抜けたり、寝たまま「第二の身体」が頭の方向に引っ張られていったりする。(つづく)

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2017年11月29日

ぼくがダライラマ?(30)

               五


 十一月のよく晴れた吉日、総勢数百人の行列が朝のデプン寺を出立していった。先払いの役人が笞で路面を叩くと、往来を行き来していた平民はひざまずいて合掌し、頭を地に擦りつけていく。ビシッ、ビシッという音を聞くたびに、輿に乗っていたぼくは、自分が叱責されているような痛みを覚えた。
 暴風は明け方にはやんでいたが、冷え込みはかなりきつかった。黄色い袈裟の上に金襴緞子(きんらんどんす)の衣を羽織っていても、足は冷たく血が通っていなかった。靴を買うことができず、足の裏がタコだらけの巡礼は、凍りついた土を踏むのもつらいことだろう。でも、今のぼくには往来を歩く自由もない。
 道の左右にある石造りの民家は、赤や青、黄色の旗が、平らな屋根にひるがえっていた。やがて行列はマルポリの丘が望めるあたりまで来た、ぼくが声をかけると、行列は動きを止めて御簾が上げられた。白い裳をはき赤茶の晴れ着をまとった巨大な宮殿が、草の生えぬ岩山から天に向かってそびえていた。ポタラ宮だった。金色の屋根は澄んだ青空に光を放ち、麓の町を非情な姿で威圧していた。
 巨石の宮殿が丘の上に建てられたのは、五十年にわたる平民の苦役(くえき)があったからだろう。それなのに、労働に携わった平民は、善根を積むことと信じ込まされ、喜んで受け容れてきたに違いない。果たしてこんなことを、釈迦牟尼が望まれたのだろうか。(つづく)

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2017年11月28日

エリコ・ロウの『死んだ後には続きがあるのか』

 立花隆には『臨死体験』という著書があり、数年前もNHK特集で臨死体験について語っていた。肉体の死後にも魂が存続すると信じられている理由の一つが、「体外離脱」という現象である。肉体から魂が抜け出て浮遊すると感じる体験である。ただし、脳の一部に電気刺激を与えたり、肉体の位置関係を司る機能が麻痺すると起こるらしい。
 心臓停止後に光の体験や恍惚感に浸るのは、苦痛を和らげるために脳内麻薬が分泌されるためで、臨死体験と呼ばれるものは、死を迎えつつある脳が見る夢の一種で、死後に魂が存続することはないだろうというのが、立花隆が下した結論である。
 今回読んだエリコ・ロウの『死んだ後には続きがあるのか』は、臨死体験を夢や幻覚とは異なるものととらえ、死後に魂が存続することに肯定的な結論を下している。
 その理由として、臨死体験では感覚も意識も冴えていること、脳の手術のために、心臓を停止させ、脳から血液が抜いた状態でも、意識が存続したことなどが挙げられる。また、臨死体験後に、ヒーリングや未来予知などの超常的な能力を獲得したり、音楽家としての才能を開花させたりなど、人格が大きく変容することもある。さらに、前世の記憶がある子供の存在なども、死後の魂の存続と、輪廻転生の可能性を示唆しているという。
 臨死体験の間には、時間と空間という感覚が消え、瞬間移動も可能になることから、物質である肉体が意識を作るのではなく、意識が物質を作るという仮説が提示される。量子論から見れば、物質はすべて振動する波動であり、意識が介在することで可能性の中から現実が選択される。その点で意識が世界を作り上げているというのだ。意識は肉体を超えた宇宙に基礎を持つものであり、死後もしばらくは個別性を維持できるというのが、エリコ・ロウの考え方である。
 エリコ・ロウはジャーナリストとして、死後の魂の存続を肯定しているわけだ。体外離脱の探求者であるロバート・モンローやウィリアム・ブルーマンなども、死後の魂の存続を認め、輪廻転生を繰り返して魂が成長していく可能性を示唆している。体外離脱の経験がある僕自身も、肉体の死が終わりではないという考えに与したくなる。これは死の恐怖を和らげるとともに、自殺を予防する効果がある。
 その一方で、量子論などを持ち出して、この世はすべて意識が作り出した幻だと結論づけるのは、最新科学の権威を借りて、近代化以前の迷信の世界に逆戻りするだけでないか、という疑念を捨てきれずにいる。

主要参考文献
エリコ・ロウ『死んだ後には続きがあるのか』(扶桑社)
立花隆『臨死体験』(文藝春秋)
ロバート・モンロー『体外への旅』(坂本政道監訳 川上友子訳 ハート出版)
ロバート・モンロー『魂の体外旅行』(坂場順子訳 日本教文社)
ロバート・モンロー『究極の旅』(塩崎麻彩子訳 日本教文社)

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