2016年05月31日

岩野泡鳴の『毒薬を飲む女』(2)

 僕の場合は父が詩を書いていて、気難しい顔して机に向かっていたり、酒を飲んで母に毒づいたり、文人仲間を呼んだときは、普段とは打って変わって、快活な笑みを浮かべていたから、『毒薬を飲む女』の主人公、義雄の人となりをありありと想像できる。文学に命を捧げていて、周囲には尊敬されていても、家族にとってはとても「難しい人」、子供の頃の僕にとっては「こわい人」だった。
 主人公の義雄は泡鳴がモデルになっているのだろう。千代子という妻と数人の子供がいるのに、お鳥という妾を囲っている。妾のうちに入り浸り、自分の子供が病気で死んでも、死に顔を見に行くのもいやがって、妻の千代子に悪態をつく。
「血の気のなくなった顔などア、手めえのを見てゐりやア十分だ、──手めえマイナス気ちがひイクオル死だ。子供は目をつぶつて、口に締りがなく、土色をして固くなつてるだらうが、そんなものを、もう、何度も見飽きてらア」
 こんな地獄の鬼のような言葉を吐けるのも、主人公がロマン主義者で「疾風怒濤」の精神を体現しているからだ。これを読んで僕はフランスの小ロマン派の作家、ペトリュス・ボレルの『シャンパヴェール悖徳物語』の一篇「狼狂シャンパヴェール」の結末の描写を思い出した。主人公シャンパヴェールは、死んだ息子の墓をあばいて、死骸を道路に投げ投げ捨て、女を殺して自刃する。
「翌日の朝早く、或る荷車曳きが、自分の車の車輪の下で、何かばりばりと砕ける音を耳にした。それは腐肉のまつわりついた赤ん坊の死骸であった」(川口顕弘訳)(つづく)


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2016年05月29日

岩野泡鳴の『毒薬を飲む女』(1)

 僕は小説の「視点」について研究しているので、「三人称限定視点」を主張した岩野泡鳴には関心を持っていた。三人称小説を書く場合、見たり聞いたり、考えたりする主人公、いわゆる「視点人物」が一人でなくてはならないという主張である。「現代将来の小説的発想を一新すべき僕の描写論」には次のような説明がある。
「けれども、まじめなものなら、今一歩も二歩も踏み出し、概念のかな網をうち破つて、その底から人生の深刻な姿を具体化させるのである。それには、作者が自分の独存として自分の実人生に臨むが如く、創作に於いては作者の主観を移入した人物を一人に定めなければならぬ。これをしないではどんな作者もその描写を概念と説明とから免れしめることができぬのだ。その一人(甲なら甲)の気ぶんになつてその甲が見た通りの人生を描写しなければならぬ」
 なるほどと思いながらも、実際に泡鳴の小説を読んだことがなかったから、三人称で書かれた『毒薬を飲む女』を読んでみた。この作品は大正の初めに書かれたものだが、印象としてはいかにも十九世紀前半のロマン主義を想起させた。「疾風怒濤」という精神で、主人公の精神が絶対化されていて、すべてを覆い尽くしている。客観的な言い方をすれば、「自意識過剰」である。冷めた現代の若者には理解できないだろう。(つづく)


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2016年05月27日

タンカの里レコン(6)

 レコンはお寺の数が多い。ここでは農業や商業も盛んで、人々が豊かに暮らしているからだろうか。チベット自治区では、徹底的に寺院が破壊されていて、大寺院は修復されても、小寺院は瓦礫のまま打ち捨てられていたが。共産党によるチベット侵攻以前から、中国の支配下にあったので、内戦状態に陥ることもなかったからか。
 レコンのホテルにチェックインし、少し休んで昼食をした。徒歩で十分ぐらいのところに、ロンウー寺(隆務寺)があった。青海省ではタール寺(塔爾寺)に次ぐ規模を誇るチベット仏教の大寺院である。寺院の大部分はダライラマの属するゲルク派で、顕教を必修として戒律を重視する。ロンウー寺も例外ではない。『チベットの死者の書』で有名なニンマ派や、ミラレパの出た密教中心のカギュ派は、チベットでは少数派なのである。
 ロンウー寺の門前には、チベット人の商店が軒を連ねている。雑貨店、本屋、オートバイ屋、どの店もチベット人が経営していて、チベット語の歌が流れてくる。聞こえてくるのもチベット語。ただし、青海省のチベット語はアムド方言と呼ばれ、ラサ方言との大きな違いは、中国語のような声調がないという点である。(つづく)


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